〜独り語り〜総ての自分へ〜
Mr.childrenの「名もなき詩(うた)」の歌詞に
「あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた“自分らしさの檻(おり)”の中でもがいてるなら
誰だってそう、僕だってそうなんだ」
という部分がある
いつのまにか完成していた「自分らしさ」の檻
自分のことなのに、自分だけがその制作に関与していなかったみたいな?檻
自分の知る「自分像」は
「“いつのまにか”像(カタチ)造られたもの!」だった
みたい!
sosite
それが、それだけが「自分自身」「自分という存在そのもの」であると思い込んだ
だから、それ以外の“自分”にはなれないし、なってはいけないと、なんとなく思っている
あくまでも「自分らしさの檻」の範囲でしか、動けなくなっているらしい
のだ
sosite sosite nannto!
それは「誰だってそう、僕だってそう」なのだ!(`(エ)´)ノ_彡
不幸にも(?!)気づいてしまった人は、同時に息(生き)苦しさにも気づき
脱出しようとジタバタもがきはじめる?!
ああ、そこから脱出する“カギ”はあるのだろうか?
あるのならば、はたして何処に?

世の中は“喜び”にあふれている
総ての人が、“その人なりの喜び”に生き、生かされている
人生における“喜び”の最初のカタチは“誕生”だ
この大地に、何ものかによって、なぜか、あらかじめ用意されたあらゆる恵みを使って
人間を含む総てのものが“喜び”から産まれ、活かされている
大きなひとつの“喜び”は
小さな個々の“喜び”で満たされている
個々の無数の“喜び”が
大きなひとつの“喜び”の中で息づいている
そして無数の個々の“喜び”は
その“質(しつ)”によって、おのずから(自然に、自動的に)グループ分けされる
同じ目線、同じ方向性、同じ趣味嗜好を持つ者たちが
ひき寄せあってグループを作っている
それらのグループには、目に見えるグループもあり、目に見えないグループもある
それらの区分けは、すべてそれらの持つ周波数によって、おのずから決まる
“質”が変われば、グループも変わり、位相も変わる
それは新たな出会いや別れという事象を伴うこともある
そしてそれは常に“今”変化し得るし、実は変化し続けている
そしてこの“質”を決定する主体は、“今ここ”自ら自身でしかあり得ない
我々の中には知らず知らずのうちに
さまざまなコマンド(命令)がインストールされている
ご飯の食べ方一つでもそうだ
「今日は食べたくないな」「こんなものを食べたいな」「こんなふうに食べたいな」と
ふと思った瞬間、目にも止まらぬ速さで
「食べなきゃ体をこわすぞ」「そんなもの体に悪い」「そんな食べ方はだめだ」等という暗黙の指令が
自分の中の何処からともなく飛んできて自分自身をガンジガラメに縛りあげる
その結果、瞬時に心身は緊張し、凝り固まり、つまらなくなり、ジワジワと不健康になっていく
そこで
「自分は別に食べても食べなくてもいいんだけど(ここがミソ
)
食べることが楽しいから(興味があるから)ちょっと食べてみているだけ」
というふうな思考に、わざと
意図的に
切り替えてみる
これによって
それまで自動化されていた「食べる事」に関するさまざまな強要コマンド(命令)が
無効化し、解除されると考えられる
このコマンド解除のやり方はおそらく
「食べる事」だけでなく、他のあらゆる事に応用可能であろうと思う
それは、何が良いとか悪いとか、こうあるべきだとか決めつけて固定するのではなく
「どっちでもいいんだけど、あえてこっちを選択しているのだ」という主体的な態度そのものである
あらゆる場面で自分に対してこの態度を取れるようになると
面白いほど他人に対しても大らかで寛容になってくるから
自分も他人ものびのびしてくる
特に人間関係で悩みのある人などは、実験してみて決して損はないと思う
なんでもそうだが、まずは「ミズカラ」である
車は、必ず、運転手の見ている方向へ行く
どこかに向かって走行中、途中でふと目の端に「タケノコ」を見つけ
「あ、タケノコだ!珍しいから降りて掘ろうかな?どうしようかな?」と、気をとられた瞬間
車の向きは、たとえわずかであっても、間違いなくタケノコのある方向へズレる
たいていの場合、「あ、あぶない」とすぐに気がついてハンドルを修整するから大事には至らないが
そのとき非常に眠かったり、疲れていて頭の働きがにぶっていたり
さらに対向車や後続車がいたりすると、一瞬の判断の遅れが命取りになったりもする
自分一人が走っているのならいいが、大抵の場合、他の車もたくさん走っているのだ
しかしこれを言いかえれば、行くべき道と目的地をしっかりと”定め”
それを一本の軸として立てて気を抜きさえしなければ
たとえタケノコを見つけてもすぐに無視することができ
無事に目的地に到着できる可能性は限りなく大きくなる
人生も全く同じことだと言えないだろうか?
目的(ゴール)がスタート時にしっかり定まっているということは
即ち、潜在的にはすでにゴールに到達したのと同じことではないだろうか?
なぜなら、自分という車は、必ず、自ら(運転者)の見据えている処へ行くのだから
自らの意志によって、ゴール=スタート が決定(約束)されているドライブは
もし途中で多少の紆余曲折があるとしても、その達成(成就)もまた決定(約束)されているのだ
もし仮に「全知全能全一」なる存在を「神」と名付けるならば
そのような存在がはたして
怒ったり、嘆いたり、はたまた自分の言うことを聞かないからといって
責めたり罰したりするだろうか?
もし本当にそんなことがあるのだとすれば
それはその「神」に、「思いがけないこと=想定外」があるということになり
明らかに「全知全能全一」ではない証ではないだろうか???
ここに一本のひもがある
これをかたくかたく結ぶのと
その結びをゆるめてほどくのでは
どちらが力が要るだろう?
誰しも何らかの経験があると思うが
結ぶこと自体はさほど力も要らず、簡単なことだ
しかし、それがキチキチにかたく結ばれていたり
複雑な結び方で何重にも結ばれたりしていると
これをほどいて元通りにするのは容易ではない
ネックレスが複雑にからまって結ばれてしまい
いくらやってもほどけなくてあきらめてしまった経験はないだろうか?
ゆるめる、ほどくにはそれ相当の「力(根気、集中力、冷静さ、実行力などの実力)」が要るのだ
ゆるめる、ほどくとは、イコール結ばれる前の元の姿に戻すことでもある
そしていったんゆるみ、ほどかれたものだけが、新たな結びを可能にする
人生は創れる
朝起きて、夜寝るまで
家庭でも、職場でも、トイレの中でもww
「機嫌良く居る」のをモットーにして
それだけを毎日実行していたら
自分の人生は
人間関係は
どうなっていくか?
実験してみよう
ふだん何気なく使っている「気分」という言葉
「いい気分」
「いやな気分」
「豊かな気分」
「貧しい気分」
「ついてる気分」
「さえない気分」
「最高の気分」
「最低の気分」 etc ・・・と、種々ある
気分とは、「気」を分けると書く
気というのを、たとえば「空気」とか「元気」とか「雰囲気」など
本来「どこからどこまで」と分けることのできないもの、と定義してみると
気分とは、本来分けることのできないものを分けたという意味になる
それは要するにひとつのヴァーチャル(実体を伴わない、まぼろし)な「設定」だ
「設定」は、おおまかには共通のものもあるが、厳密に言うと個人個人、微妙に違う
同じことが、ある人には「いい気分」になるものでも
別な人には「いやな気分」になるものだったりする
そしてその強弱や程度も違う
そして我々の多くはほとんど無意識のうちに
この「気分」というヴァーチャルを採用し、さらにたいへん重要視しており
それがヴァーチャルであることすら全く考えたこともない(眠っている)ので
その不安定極まりない自分の気分にいつも左右され
それを基準にものごとを選んだり、決めたり、行動したりしているのだ
「気分」と「直感」は違う・・・少なくとも、文字が違うwww
自分は何を基準に動いているのか?
人間は自分自身を「素晴らしい」と感じたいし「幸せだ」と感じたい
本当は自分でそう思えばいいだけの話だが
それでは余りにもあっけなさすぎて面白くないし
あっけないことには「特別」で「重要」な「価値」を感じられない
そこで、しっかり価値を感じられるような「ドラマ」を、強く思い描く
常に今、もっとも強い思い(念)が現象化する(現在進行形で)
誰かに認められ、癒され、愛される→他人が大事にしてくれる自分を特別な存在と感じ、幸せと感じる
誰かを認め、癒し、愛する→他人を幸せにする自分を価値があると感じ、幸せと感じる
そういう状態の自分を感じると安心するので、そういう状態になれる環境を自ら作り出す
もちろん、上記を裏表ひっくり返すと、世にも不幸な自分を作り出すことも可能だ
ただしこの場合ですら、「世にも不幸な自分」を演じることに「幸せ」や充実感を感じているらしい
結局、私たちは「幸せ〜
」と思えるなら、なんだっていいらしいのだ
身も蓋もないけれど、まあ、こんな感じ?
自分の足で「はじめの一歩」を踏み出すのは
二本の足にじゅうぶんな筋肉がついて、じょうずにバランスを取れるようになり
これまで自分を引っ張ってくれた「ガイド」や、支えてくれた「補助輪」に
感謝をもって別れを告げてからだ
もしこの世界が、「子供だけが存在する箱庭のような世界」だとしたら・・・・・
まるで本物そっくりの、巨大な遊び場、遊園地だとしたら・・・・・・・・・・・
70億人もの子供たちが、毎日遊んでいるのだから、何とも壮大な眺めだ
みんな夢中になって、好きな仮面をかぶり、好きな道具を選び、遊びに没頭している
子供政府、子供銀行、子供会社、子供学校、子供家庭
・・・・・子供たちは創造性豊かにいろんなものを創り出している
ただ、幼いので、自分と全体の関係やバランスを見るための身長が足りず、視点も低く狭い
少し背の伸びた年長の子供が、かろうじて少し見えているだけだ
当然、知能も体験値も少ないので、やることがまだそうとう動物的で野蛮だったりする
そして「大人」がその世界をじっと見守っている
子供たちが体験したいことを、可能なかぎり、じゅうぶんに体験できるよう
ありとあらゆる環境を設定し、必要なものをあらかじめ用意し
子供たちが自分で発見したり、加工したりできるようにしている
もちろん「子供銀行券(=おかね)」もある
子供たちはその幼児性のままに、いろいろなものを奪い合い、いじめたりいじめられたりしているが
「大人」はよほどのことがない限り、決して介入せず、子供たちの選択を尊重している
そうこうしているうちに、その子たちの中から、幼児性を卒業する段階に達する子が出て来る
その子は、それまで夢中になっていた世界にそろそろ飽きてくる
もう体験したいことはじゅうぶん体験し、同じことを繰り返すのがつまらなくなったからだ
そしてある日、ふと目を上げ、自分の頭上からじっと見守っている「大人」の視線に気づく
気づいた瞬間、その子は「あっ」と声をあげそうになる
「大人」は笑いながらその子に「しーっ」と合図をする
その子は、じゅうぶんに賢くなっているので、すぐにその意味をさとり
深くうなづいて開きかけた口を閉じる
「これは、君と私とのヒミツだよ」・・・「大人」はそう言って、その子に「何か」を伝え
またそっと姿を隠す
その子はわくわくしながら、今まで遊んでいた遊び場を振り返るが
もう2度と以前の自分に戻ることはできない
なぜなら「大人」の「ヒミツ」を知ってしまったから・・・・・・・・・・・
本来ならごく当たり前であるはずの
自分のハート(念い)を尽くし、自分のヘッド(頭)で考え、自ら「果」を産み出すということが
今の私たちにとって大変困難なことになっている
これはまさに、目的地に至る夢と希望だけを道連れに
道なき道をたった独りで駆ける、フルマラソンのごときものだ
そしてその途上には
さも、孤独をいやすような
さも、のどの渇きをうるおすような
さも、疲れを取り去ってくれるような
さらには
もうやめていいんだよ、楽になりなさい、というような
「こっちの水は甘いよ♪」というような
さも親切であたたかいような、さまざまな誘惑が待ち受けている
まだ意識がはっきりして余裕のある間は、それらを振り切って進むこともできるが
いよいよ胸突き八丁ともなって意識もうろうとなってくると、それは魔力のように私たちを吸いつける
そして、よほどはっきりとした強い目的と意志と情熱がなければ
休みたい、頼りたい、癒されたい、楽になりたい・・・・・・・これらの欲求が主権を握るだろう
私たちは「断言」に弱い
また「アドバイス」に弱い
「こうしなさい」「ああしなさい」という指示に弱い
これらに逢うと反射的に「従属」しようとする感性が完成している
独りひた走る孤独に耐えきれず
苦しくてたまらないとき差し出される「親切な手」「強そうな手」に「光(?!)」を見出し
ついふらふらと導かれていってしまいたくなるだろう・・・・・・・
しかしまたそれも一興
フルマラソンを走りぬくも
途中でやめるも
一度やめてまた走りだすも
とどのつまり私たちはすべて自分で選んでいるのだから
たとえ崇高な人生の志を立てた人間であっても
もし自らのやっている事に全幅の信頼を置けない場合
つまり、どんなにわずかであっても
何らかの後ろめたさ(それは多くの場合、世間的な常識や規範に添っていないのではないか、という恐れから生じている)を感じている場合
そういう場合に限り、他人からの批判や評価、特にそれらが「不当だ」と感じられると
それまで穏やかだった精神に突如、波が起こり、ムキになって弁解、言いわけ、自己主張に走る
このとき、「他人が自分を認めてくれないから」「不当に扱うから」と言うが
実は、本当に認めておらず不当に扱っているのは「自分自身」であることに気付く必要がある
真底、今今の自らの志に誇りを持ち、全幅の信頼を置いている者の精神は、「青空」であり
青空以外のすべては、浮かんでは消える雲のごとく、なんらの影響力を持たず
したがって、あらゆる弁解、言いわけ、自己主張は雲散霧消する
言いかえれば、ほんのわずかでも弁解、言いわけ、自己主張があるうちは
どんなに立派な人格者といえども、まだ闇の中ということになる
ただし、このことについての理解は
すでに自らの意志で選んだイバラの道(=喜びへの道)を
真摯に生きている者に限って必要なのであり
単なる感情の「嬉しい、楽しい」「青空だ、太陽だ」で浮かれている次元とは
完全に袂(たもと)を分かっていることを知らねばならないだろう
我々がほんとうに恐れているのは
実は
貧しくなることや、弱者になることではなく
自らを力ある存在、完全に豊かな存在と認めることかもしれない
精神の耐震強度は、ゆさぶってみればわかる
どんなゆさぶりが来ても
内からにせよ外からにせよ
小さいことであれ大きなことであれ
どんな種類のゆさぶりであれ
微動だにしない耐震構造であるだろうか
「地球」という、球形劇場のステージ上で
私たちは全員、みごとに「自分」を演じ切っている
誰一人、大根役者などいない、名優ぞろいだ
完全になりきり、演じていることすら忘れ
本気で力いっぱい泣いたり笑ったり怒ったり恨んだり感動したり
今の今も世界中で
全員の、全員による、全員の(喜びの)ための迫真の演技が
休むことなく繰り広げられている
★9月24日放映「天国で君に逢えたら」より★
余命宣告を受け、自暴自棄のつらい葛藤を経たサーファーが
死を目前にした最期の短いときを家族と過ごし
「カイト・ボーディング」に初挑戦するが
その練習の大変さに、思わず「もうやめようよ」と心配する妻に
笑顔で言い残した言葉
**********
与えたいんだよ!子供たちにさ!
結局、死んで残せるものって
人に与えたもんだけだろ?・・モノじゃなくて・・
子供たちにさ!
お前らの父親はすげえんだ!最期ムチャクチャ頑張った!かっこよかった!って
そういうとこを見せたいんだ!
そしたらあいつら、しんどいとき
それを思い出して頑張れるかもしれないだろ?
なんかそれって、親父としてはかっこいいだろ?
大丈夫、おれってほら、やればできる男だから!
*********
そして、見事、彼は空を飛び
「(天国が)あったーーーー!あったーーー!」と叫んだ
「消費者」と「投資家」は、その言葉のイメージから、まったく違うもののように見えるが
大きな共通点がある
単純化すれば、それは「お金を使って何かをする」ことだ
そしてその目的が「喜び」であるという点だ
人は、喜びのないところには絶対にお金は払わない
お金を払う対象が、人であれ、モノであれ、コトであれ
喜びが感じられないものには決してお金を出さない
消費という言葉は、「お金が消えていく」というイメージを持ちやすく
投資という言葉は、「お金が増えていく」というイメージを持ちやすい
そしてこのイメージの違いが、現実にとんでもなく大きな違いとなって表れている
自分を「消費者」とイメージするか「投資家」とイメージするかで
自分の人生全体についてのイメージがガラリと変わってしまうのだ
かてて加えて、「消費者」には「一般大衆」というイメージがセットになっており
「投資家」には「一部の富裕層」とか「特別な成功者」と言ったイメージがセットになっている
やっていることは基本的には同じなのに、である!
その固定されたイメージのために、消費者は文字通り「お金を減らす、消す」よう行動し
投資家は「お金を増やす、活かす」ように行動する
結果、リッチとプアー、勝ち組、負け組などというバカげた構図が作成される
これらは、我々がボヤッとしている間に
いつのまにか植えつけられたマインド・コントロールと言えるかもしれない
政治をはじめ、さまざまなことがスピードアップして変化し、顕現している現在
我々はもういい加減、この貧乏くさい「消費者」という幻想から目覚めても良いのではないだろうか?
明日からは、スーパーで大根を買うときに
「私は、家族の健康と、味わう喜びのために、この大根に投資しよう!」と意識を変えるのだ
本を買うときも、お菓子を買うときも、電車代を払うときも、光熱費を払うときも
私たちは、人生の喜びに投資する「投資家」として、お金を払うのだ
投資家なのだから、投資の仕方も自然と考えるようになるだろう
これからは「私は、すぐれた投資家である」というところから、日々を始めるのだ!
「火水伝文」の中の一節に
「解かりてもらおう思いてなさるは身欲にござるぞ(後略)」という文がある。
これはどういう意味で、どのように自分(=人間)を映し出してくれるだろうか。
たとえば、どんなに世のため人のためといって何を為そうとも
その根拠が「誰かにわかってもらいたい(認めてもらいたい)」という思いである限り
それは結局我が身の満足を得たい、我の喜び(=我喜=ガキ)の範疇を出ていないということだろうか。
さらに
誰かにわかってもらいたい、の「誰か」とは誰だろうか?
いったい私たちは誰にわかってもらいたいのだろうか?
そしてそれはなぜだろうか?
私たちの多くは、ほとんどの場合
自分(の利害・損得)に直接影響や関連のないものごとや人には関心がない
その範囲が人によって大小さまざまである(ように見える)だけだ
その範囲が一家庭の人もいれば、社会、世界、宇宙の人もいるが
それは「自分に関係があると認識している」という点では同じことだ
だから自分とは何の関連も影響もない(ように見える)人にわかってもらおうとは思わない
無関係(に見える)者には、はなから興味も関心も持たない
つまり、私たちが「わかってもらいたい」と思う対象者とは
自分が認識できる範囲にいる身近な人で
かつ自分に影響を与え、利害・損得が発生する(ように見える)人のことだ
この人にわかってもらいたい(認めてもらいたい)のだ
だからそのために、時にはまったく「したくないこと」も、あえてしたりする
まあ、とどのつまり、認めてもらうことを「したい」のだから
結局「したいことをしている」のではあるが。。。。
とにかくその関係性においては、自分は「主」ではなく「従(獣)」側であり
自分にとってその人は、「飼い主」であり「主人」なのだ
しかし、もしその人(飼い主)がわかってくれなければ(認証欲求が満たされなければ)
この飼い犬は怒りくるって反逆し、飼い主にかみついたりする
しかし悲しいかな、エサ(認証)が欲しいから、エサを必要とし欲する限り
首ねっこをつかまれている(と思っている)ので
またぞろ卑屈に尻尾を振り、飼い主に依存し、隷属していく
万物の霊長と言われ、神成る予定者たる人間がこのザマでは
まったくもって本物の犬にも失礼だろう
はたして自分はどうだろうか???
行く道は独り
たとえ人生の長い苦難のときを、力を合わせ共に生き抜き
言葉のいらない深い理解に至った友を得たとしても
それがどんなに尊く得難いものだとしても
それは何ものかの見えない計らいによって
「共に生きる」という条件下において得たのであり
その条件を取り去って、真白き道に立てば
友(共)などというものは最初から無く
我々はみな、堂々たる独りである
Author:HIMIKA
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